自民党に歴史的大敗をもたらした民意を読み解く
慶應義塾大学名誉教授
これも政治の劣化を反映する現象なのだろうか。ここのところ自民党が、もっぱら権力闘争に明け暮れている。
先週、立憲民主党の小西洋之議員が、安倍晋三元首相の補佐官だった礒崎陽輔参院議員(当時。現在は落選中)が総務省に対し、放送法の解釈変更を迫っていたことを示す文書を公開したのに対し、その当時総務相だった高市早苗経済安保担当大臣が「捏造だ」と応戦。文書が本物だったら議員辞職をするかとの問いに、「結構だ」と大見得を切った。
ところが今週になって、松本剛明総務相が小西議員が公表した文書はすべて「行政文書」だったことを認めたため、議論の焦点はもっぱら高市氏の進退問題に集中することとなった。
一方、岸田首相は、総理補佐官からの圧力にもめげずに総務省が放送法の解釈を変更しなかったことを繰り返し述べ、問題はなかったとの姿勢を取っている。しかし、本来は政権がそのような形で省庁に法解釈の変更を迫ることもあってはならないことだし、ましてや放送法の解釈変更となれば憲法が保障する表現の自由にも関わる大問題だ。総務省が官邸側の要求に屈しなかったからといって不問に付していい問題ではないし、それが高市氏の進退問題にすり替えられてしまうようなこともあってはならないことだ。
しかし、今の自民党は何か事があると、それが必ずと言って良いほど権力闘争に利用される。過去10年近くの間、異例の長期政権と党内最大派閥の力をバックに日本の政界の最高実力者として君臨し続けた安倍元首相が凶弾に倒れ、突如として生まれた権力の空白を我が物にしようと、有象無象の政治家たちが水面下で蠢いているからだ。
今回の放送法の解釈変更問題も、告発した当の小西氏は懸命に表現の自由や首相官邸の政治権力濫用の問題を指摘したが、堕落した既存メディアがその議論は避けたいことも手伝って、気がつけば高市氏の進退問題ばかりに収斂されてしまった。安倍首相亡き後、その寵愛を受けてきた高市氏の力を今のうちに削いでおきたいという意味では、政権を担う宏池会(岸田派)も安倍氏の跡目争いが激化している清和会(安倍派)も同じ穴のむじなだ。
しかし、そのような政争を背景とする権力闘争が優先され、放送法が一方的に解釈変更されかねない状況にあったという、国民の知る権利にも関わる重大問題が置き去りにされることはあってはならない。
もう一つ政争が優先された結果、国益が損なわれた事例が、先週の林芳正外相のG20欠席問題だ。
3月1、2日とインドで開催されたG20外相会合に、林外相は出席する予定だった。しかし、参院は2月28日に予算案が衆院を通過したのを受けて、その両日に予算委員会の「基本的質疑」を実施することを決め、林外相の参加を求めた。国会から求められれば閣僚は出席しなければならないことが憲法で定められているため、林氏はG20を欠席せざるを得なくなった。
今年度予算案は2月28日に衆院を通過したことで、憲法上の規定から予算の年度内可決は確実になっていた。そうした中で参院がG20とバッティングする3月1、2日にどうしても予算委員会を開催しなければならない理由はなかった。林氏が帰国した後でも日程的には十分余裕があったのだ。
3月1、2の両日に予算委員会を開催することを決めたのは、世耕弘成参院幹事長と野上浩太郎参院国対委員長だ。いずれも清和会に所属し、岸田首相や林外相とは政治的にはライバル関係にある。ましてや安倍派会長の跡目を狙いその勢いで総理候補にも登りつめる野望を抱く世耕氏は、直近の衆院選挙で参院からの鞍替えを画策しながら、同じ和歌山選出で息子に地盤を譲るタイミングを見計らっていた二階俊博元幹事長の政治力に押さえ込まれ、鞍替えに失敗している。その一方で林氏は先の衆院選で見事参院から衆院への鞍替えに成功し、今やポスト岸田をうかがう筆頭候補の一人にまでのし上がっている。
世耕氏がなぜそうまでして林氏を日本に縛っておきたいと考えたのかは本人のみぞ知るところだ。清和会の跡目を狙う世耕氏が、宏池会ばかりに良い格好はさせてなるものかと考えたのか、順調に鞍替えをした林氏に対するライバル心や妬み嫉みからなのか、あるいは衆院への鞍替えを諦め参院に骨を埋める覚悟を固めた世耕氏が、参院のメンツをかけてそのように振る舞ったのか。理由は何にしても、日本の政治の非常識が世界の満天下の下に晒させることとなり、結果的に国際社会における日本のメンツは丸つぶれとなった。しかも参院側から出席を求められ日本にとどまった林氏に対し、予算委員会の「基本的質疑」で出された質問は自民党議員からの一問のみで、その答弁にかかった時間は僅か53秒だった。その53秒のために日本は国際的な信用を落とすとともに、議長国インドのモディ首相の顔に泥を塗ったのだ。
政治は本質的には権力闘争だ。しかし、今われわれが目撃させられている権力闘争は何のための権力闘争なのか。国益を無視した権力闘争などというものがあり得るのか。政治ジャーナリストの角谷浩一とジャーナリストの神保哲生が議論した。