裏金問題に終始した通常国会が閉幕し、メディアはオリンピック一色となっている。しかし、永田町では9月末に予定される自民党の総裁選をめぐり水面下で激しいさや当てが始まっている。
自民党の総裁選は言うまでもなく日本の首相を選ぶ選挙だ。自民党員と自民党所属の国会議員にしか選挙権はないが、そこで選ばれた新総裁がほどなく招集される臨時国会で実施される国会議員による首相選挙で首班指名を受け、日本の内閣総理大臣になる。つまり、自民党の総裁選は目下、選挙戦たけなわのアメリカ大統領選挙に相当するものだ。少なくとも本来はそのはずだ。
しかし、この盛り下がり具合は一体何だ。たまに総裁選を巡る報道らしきものがあったとしても、「麻生が誰と会った」だの「菅の意中の人物は誰だ」などといった、まったく国民を置いてきぼりにした情報だけがまことしやかに飛び交うばかりだ。こんなことをやっていて日本は大丈夫なのか。
アメリカの大統領選挙はバイデン大統領が選挙戦から撤退し、ハリス副大統領とトランプ前大統領の一騎打ちとなることが確実視されているが、この選挙でどちらが勝つかによって、アメリカの内政・外交ともに凄まじい政策変更が予想されている。もちろん日本も大きく影響を受ける。言っては悪いが、自民党の総裁選よりもアメリカの大統領選の方が日本への影響が遥かに大きいというのが現実だろう。だから、アメリカの有権者も熱狂的に一方の候補を支持する。それは単に好き嫌いを超え、選挙結果に自らの人生が大きく左右されるからだ。
アメリカの選挙や政治制度の善し悪しは別として、民主政下の選挙というのは本来そういうもののはずだ。誰が勝っても何も変わらないというのは、何かが根本的に壊れているとしか思えない。
まず大きな責任を負っているのがメディアだ。特に政治情報に半ば独占的にアクセスがある既存の記者クラブメディアの政治ニュースはほぼ100%政局情報だ。政策情報というのは、政治部の駆け出しの若手が扱うもので、ある程度経験を積んだ政治記者は大物政治家に食い込み、彼らの一挙手一投足を追いかけながら政局の動静をウォッチすることこそが崇高な仕事であるかのように考えられている。
そのため一般の市民は、誰かが勝つことによってそれが自分たちにどのような影響を及ぼすことになるのかがまったくわからない。これでは民主主義が正常に機能するはずがない。
また政策報道がないため、そもそも有権者の関心が政策に向かず、結果的に野心的な政策を掲げることが、政治家にとってはリスクでしかなくなってしまう。特定の政策の意味やその善悪を判断する材料がなければ、政策論は政治家に対する支持の向上にはつながらないからだ。その一方で、野心的な政策や改革的な政策は、現在の既得権益者を敵に回すことが避けられない。結果的に自民党の総裁を目指す上で、野心的な独自の政策を前面に掲げることは候補者にとって何の得にもならないというような状況が何十年も続いている。実に不幸なことだ。
政局というのはいわば権力闘争のことだ。政治には権力闘争はつきものであり、これなくして政治は成り立たない。しかし、その一方で、何のための権力闘争なのかという視点が欠けた瞬間に、権力闘争は単なる権力欲の発露や利権のための闘争となってしまう。特定の政策や理念、理想を掲げた政治がそれを実現しようと思えば権力を手中にする必要がある。そのための政局であれば政局報道もまだ意味があるが、肝心の目的なき政局報道は権力欲の亡者たちの政治ごっこに国民を付き合わせているだけで、百害あって一利もない。
今週のポリティコはなぜ日本の政治が政策不在の政局ごっこに終始してしまうのかを考えた上で、今、翌月に総裁選を控えた自民党と代表戦を控えた立憲民主党の中で何が起きているのかを政治ジャーナリストの角谷浩一とジャーナリストでビデオニュース・ドットコム代表の神保哲生が議論した。