司法問題を総選挙の争点にしなくてどうする
弁護士
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甘利明経済担当相が業者から不透明な資金を受け取ったことを認め辞任をしたことで、改めて「政治とカネ」の問題に注目が集まっている。
ビデオニュース・ドットコムでも先週のこの番組で、甘利問題の背後にある現在の「企業・団体献金」の在り方に重大な問題、かつ信義違反があることを指摘した。
リクルート事件や佐川急便事件などで政治家と企業の金権癒着ぶりが露呈したことを受けて、1994年に税金で政治活動を賄う「政党助成金制度」が導入された。その際、当然のこととして、企業団体献金は禁止されることが前提だった。その後の法改正で政治家個人に対する企業・団体からの献金は制限されたが、政党に対する企業団体献金は引き続き認められた。そのために現在でも企業・団体から「政党支部への献金」という名目で、事実上政治家個人への企業献金が続けられている。それは、毎年、政党助成金として年間320億円もの税金が投入されている現在、明らかに約束違反であるというのが先週の番組の主な論点だった。
その論点そのものは約束違反という意味では100%間違っていない。
しかし、政治資金については、それとはまた別の次元で、われわれ主権者が考えておかなければならない重要なことがある。それは、そもそも政治資金が本当に悪なのかという、先週の番組での議論をやや「卓袱台返し」するような視点で
ある。
日本の政治資金規正法の「せい」の字が、制限を意味する「規制」ではなく、正しいかどうかを問う「規正」であることは周知の通りだ。これは日本では戦後GHQの占領下で1948年に最初に制定された政治資金規正法が、アメリカ法の理念である、主権者が政治献金を通して政治に参加する権利を制限すべきではないが、その資金が正しく使われていることは担保されなければならないという考え方を反映するものだった。
ところが、その後、造船疑獄、ロッキード事件、リクルート事件などの大型疑獄事件が相次いで起き、そのたびに「政治とカネ」の問題が取りざたされる。「金権政治」、「政官財の癒着」が常套句となり、そこに切り込む東京地検特捜部は「巨悪」を許さない正義の象徴のような存在として、マスコミに持て囃されるようになった。そして、疑獄事件のたびに政治資金規正法が改正され、金額に対する制限が強化されていった。政治資金規正法としてスタートした法律が、いつのまにか途中から政治資金規制法へと変質していったのだ。
確かに政治権力の濫用は問題だ。特に業者と癒着し、特定の業者に便宜を図ることの見返りに裏金を受け取るような「賄賂」は政治を歪めるだけではなく、政治の介入によって談合が行われ、本来よりも高い金額で公共事業が発注されれば税金が詐取されることにつながるし、市場の競争原理も歪められることになる。何よりも不公正や不正義が放置されている感覚が蔓延することの社会全体への悪影響は計り知れない。そのような賄賂が放置されることがあってはならないのは言うまでもない。
しかし、その一方で、官僚機構の切り込み隊長役でもある特捜検察が、政治力のある大物政治家を摘発し、その金権ぶりを暴くことをマスコミが持て囃し、結果的に世論の圧倒的な後押しを受けて政治資金が制限されることで、その副作用として何が起きるのかは注意して考える必要がある。確かに政治資金の「規制」を強化すれば政治はきれいになるかもしれない。しかし、資金面で丸腰にされた政治家が、巨大な官僚機構を向こうに回して、既存の利益構造を変えるような強い政治力を発揮することが、果たして可能だろうか。
政治哲学者のマックス・ヴェーバーは政治の最も重要な条件として、官僚をコントロールし、既存の利益構造の枠組みを変える決断力を有することを挙げている。主権者たるわれわれは官僚は選ぶことができない。しかし政治を選ぶことはできる。たから、われわれの代表たる政治家が、官僚機構をしっかりコントロールして、政府の暴走を防ぐと同時に、われわれが国の運営費として委任している税金を含めた政府の権能を、主権者の利益に敵ったものに使うよう務めてもらう。それが政治本来の機能のはずだ。
政治学者の小室直樹は、政治には「カネのための政治」と、「政治のためのカネ」があると言った。両者は似ているようで、本質的に似て非なるものであることを、いまわれわれはあらためて再確認する必要がある。
アメリカの政治資金に対する考え方は、有権者が支持したい政治家に献金する自由は尊重されなければならない。そのため金額は制限しないが、その使途をガラス張りにして、政治資金が正しく使われていることを主権者が確認できるようにしなければならないというものだ。ガラス張りにすることで、「カネのための政治」が行われていないことを確認することは、主権者の権利であると同時に、義務でもあるという考え方の上に立っている。
有権者の期待が高く寄付などを通じて多額の政治資金を集めることができる政治家は、その資金を使って、幅広い政治活動を展開することが可能になる。政策立案機能を強化したり、党内での支持基盤を広げるために他の有望な候補者を発掘して支援することに、その資金をつぎ込むことが可能となる。無論、その使途は公明正大なものでなければならなし、ガラス張りになっていなければならない。しかし、そうした資金を使って高い政策立案能力と政党内の強固な権力基盤を築いた政治家の主張は、官僚機構も無視できなくなる。そういう政治家でなけば、あの巨大な官僚機構と喧嘩などできるはずがない。
その一方で、「カネにきれい」なことだけが取り柄の善良な政治家がたくさん集まり、政党助成金のような公的扶助をありがたく受け取って政治活動を展開したとして、その政治家たちに果たして既得権益の守護神としての官僚機構とがっぷり四つの大喧嘩が期待できるだろうか。
あえて誰とは言わないが、過去にも絶大な政治力を持ち、その力をもって既存の枠組みを変えようとした政治家の多くが、いやそのほとんどが、政治とカネの問題で特捜検察に摘発され、その政治力を削がれている。無論、それは偶然だったのかもしれない。しかし、今こそわれわれは上記のマックス・ヴェーバーの言葉を再確認すべきではないだろうか。
まず、われわれはアメリカ的な政治資金規正法の理念の上に立つのか、あるいは大陸法に見られる政治資金規制法の理念に上に立つのかについて、理解と議論を深める必要がある。その上で、どのような制度を構築していけば、政治活動や経済活動が歪められることなく、また税金が詐取されたり無駄になることがなく、主権者の利益が守られ、いかに官僚機構が抵抗しようとも主権者によって選ばれた政治家が必要な改革を実現できるような政治を実現できるのかを考える必要があるのではないか。
少なくとも政治スキャンダルのたびにマスコミが横並びで大合唱する「政治とカネ」の薄っぺらな議論に惑わされ、100年の計を過たないようにしたいと思う、今日この頃である。
ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が、「誰が官僚をコントロールするのか」というマックス・ヴェーバー的視点で、政治とカネ問題に対して先週とは正反対のアングルから議論した。