18歳選挙権で試される日本の成熟度
精神科医・筑波大学医学医療系教授
1961年岩手県生まれ。86年筑波大学医学専門学群(環境生態学専攻)卒業。90年筑波大学大学院医学研究科博士課程修了。医学博士。87年から爽風会佐々木病院に勤務。99年より現職。著書に『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』、『原発依存の精神構造〜日本人はなぜ原子力が「好き」なのか』など。
昨年12月の大阪市立高校バスケットボール部キャプテンの自殺をきっかけに、体罰をめぐる論争が巻き起こっている。自殺した男子生徒が残した遺書には、コーチを務める教員の体罰に対する悩みが綴られていたという。
男子生徒の自殺の原因がコーチの体罰にあったかどうかは、はっきりとしないところがある。しかし、キャプテンである彼が、他の部員の前でコーチから繰り返し殴られることが、この生徒に大きな精神的ダメージを与えていたことは想像に難くない。
そこで今週は精神科医の斎藤環氏に、体罰の背後にある精神構造や、体罰をふるう側の教員とこれを受ける側の生徒にどのような精神的な影響があるかなどを聞いた。
斎藤氏は学校という閉鎖的な空間の中では「共同体的な密室性が成立し、別のルールで動いて当然という空気がそこを支配しがちになる」と指摘した上で、このような固定化された集団の中では「体罰やDV(ドメスティックバイオレンス)など暴力的な関係性を作られると、それが一種の絆のように感じてしまう傾向がある」と説く。暴力を振るう側は「これはお前のためだ。愛のムチなのだ」といって自己を正当化し、振るわれる側は「悪いのは自分なのだ」とその責任を背負って、暴力を振るう側を擁護し、絆を維持しようとする。集団の密室性が暴力を温存して、時には連鎖してしまうというのだ。
斎藤氏はまた、体罰は教育基本法で明確に禁止されているため、建前上は一切行われていないことになっている点を問題視する。建前と実態が乖離し実態の把握が困難になると、その影響を予想することができない。その意味でも体罰は容認してはならないと斎藤氏は断ずる。
体罰のどこが問題なのか。体罰と懲罰の境界はどこにあるのか。精神科医の斎藤環氏とともに、哲学者の萱野稔人と社会学者の宮台真司が議論した。(今週のマル激は神保哲生に代わり哲学者の萱野稔人氏が進行役を務めました。今週のニュース・コメンタリーはお休みします。)