偽りの沖縄返還を暴いた伝説の記者・西山太吉の遺言
元毎日新聞記者
1953年愛知県生まれ。77年京都大学経済学部卒業。同年中日新聞社入社。東京本社社会部、同特別報道部などを経て、90年香港特派員、91年北京特派員、95年コロンビア大学東アジア研究センター客員研究員、99年中国総局長などを経て、02年編集委員、06年より論説委員。10年10月より現職。著書に『「中国問題」の内幕』、 『「中国問題」の核心』など。
尖閣諸島沖で中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突した事件で、船長を逮捕・勾留した日本に、中国は強く反発した。船長を釈放したことでとりあえず中国の報復は収束しつつあるようだが、中国の国内事情を最もよく知る一人である東京新聞論説主幹の清水美和氏は、今回日本政府がとった行動は日中関係のみならず、今後の中国の国内政治や外交姿勢に大きな、そして恐らくネガティブな影響を及ぼすだろうと、その責任の重大さを強調する。今回の一連の出来事は、単なる日本外交の一失態として済まされる問題ではないと言うのだ。
もともと尖閣諸島が日本固有の領土であることは国際法上疑いのないところではあるが、日中両国が領有権の主張しているため、日中間ではこれを「棚上げ」、つまり領有権問題は無理に決着させないまま、共同開発などの経済的関係を深める高度に政治的な手法が採られてきた。これは尖閣諸島を実効支配する日本にとっては有利な取り決めとも言えた。棚上げされている限り、日本の実効支配が続くことを意味するからだ。
ここで言う棚上げとは、互いに軍事力や過剰な警察権などを行使せず、何か問題が起きれば実効支配する日本側は取り締まりは行うが、仮に中国人が逮捕されたとしても、外交上の配慮からすぐに強制送還することで、日本の国内法で処罰まではしないというものだった。対中強硬派だった小泉政権でさえも、中国人活動家が尖閣諸島に上陸した際、彼らを強制送還することで、国内法で処罰まではしていない。
しかし、今回日本がこれまでの「棚上げ」を返上し、船長を刑事訴追する意思を明確に示した。これに危機感を覚えた中国は、これを日本の政策転換と受け止め、必ずしも事の重大さを理解していない日本側にとっては「過敏」とも思える報復に打って出てきた。
89年の天安門事件を現地で取材、香港特派員、北京特派員、中国総局長を務めてきた清水氏は、今回の日本政府の対応は、日本が外交上の権威や尖閣諸島の実効支配という優位な立場を失ったことにとどまらない可能性が高いと言う。今回、形の上では日本がけんかを仕掛け、それに報復した中国に対して最終的に船長の釈放という形で屈服する形になった。これにより、今後ますます大国化していく中国の進路を誤らせる重大な契機を日本が作ってしまった懸念があると言うのだ。これを機に、中国の共産党内や中国国内に、今や強国となった中国はより強硬な対外路線をとった方が、より多くの国益を得ることができると主張する勢力が台頭してくる可能性が大きいからだ。
現在中国は、南シナ海で領有権をめぐりASEAN各国と対立するなど、これまでにない強硬外交を展開し始めている。ただし中国国内にはこうした強硬路線を諫める勢力もあり、胡錦濤国家主席は必ずしも強硬外交一辺倒の立場ではなかった。しかし、今回の事件で、中国が強く出れば日本のような大国でさえ屈服させることができるという誤ったメッセージを、日本は中国政府や中国国民に見せつけることになった。このことが、アジアの軍事大国となり、経済成長を遂げ、これまでにない高揚感のただなかにある中国を、国力や軍事力を存分に使ってやっていけば良いという方向に向かわせることになったのではないかと、清水氏は懸念する。
一党独裁の中国共産党は一枚岩と見られることが多いが、実際は歴史的にも党内闘争が激しく、胡錦涛政権の権力基盤も盤石とは言えない。今回、胡錦涛政権が、日本から売られた喧嘩を買い、激しい報復に出なければ、政権の権力基盤を揺るがしかねないほど、領土問題は一般の中国人にとっても、中国共産党にとっても、そのアイデンティティに関わる重大な問題だと清水氏は言う。
胡錦涛政権は06年に、それまで5年間中断していた首相の訪中を受け入れ、その後日中共同声明を発表、尖閣諸島の領有権問題を棚上げにして東シナ海の共同開発で合意をするなど、対日外交の進展に前向きに取り組んでいた。しかし、この東シナ海の共同開発合意をピークに、中国国内で胡錦涛政権が日本に対して弱腰であることへの猛烈な反発が起き、一党独裁の中国共産党の最高指導者である胡錦濤氏をもってしても、対日強硬論を抑えることができなかったと清水氏は話す。
こうした中国の複雑な国内事情を、菅政権はまったく分析できていないのではないかと、清水氏は指摘する。前述した中国の国内事情を考えれば、今、日本が国内法の拡大適用という形で領土問題をエスカレートさせれば、中国から猛烈な反発が起きることは、少しでも中国の政治を知るものにとっては常識だった。「政治主導」のために官僚から必要な情報が上がってきておらず、中国を少しでも知る人なら当たり前にわかることを踏まえないまま、政治決定が行われた可能性が高いと、清水氏は言う。
たとえば、12日深夜に戴秉国(たいへいこく)国務委員が、丹羽駐中日本大使を呼び出したことに対して、仙石官房長官は深夜に大使を呼び出すとは失礼であるとして、「日本政府としては遺憾だ」と話している。しかし、戴秉国氏は胡錦濤氏の側近中の側近だ。彼が出てきたことには非常に重要な政治的な意味が込められており、中国もこの問題を決着させるために真剣であることを示そうとしたと考えるのが妥当だと清水氏は言う。また、中国では深夜、他の用事を気にしない時刻に相手に会うことは、親密さの表れだという文化がある。その程度の基本的な情報さえ、官房長官に上がっていなかったのではないかと清水氏は推測する。
また、今回の事件発生直後には、他にも、中国から問題を大きくさせないための数々のシグナルが送られてきていたと清水氏は言う。しかし、日本はそのシグナルを受け止められる知中派が政権内にいないため、それを全て見落としてしまった。結果的に中国はそれを日本の政策転換と受け止め、船長の拘留が延長されたのを境に、激しい報復に出てきたということになる。
今回の日本政府がとった行動が、中国からはどう受け止められていたのか、また、なぜ中国があそこまで強硬な姿勢をとったのかなどを、中国の政治事情や国内事情に詳しいジャーナリストの清水氏に聞いた。