「年収の壁」と「働き控え」を克服するためのベストな方法とは
大和総研主任研究員
1967年にミサワホームを興し、一代で業界第3位の住宅メーカーに育て上げた三澤千代治氏が、ミサワホームを追われて1年が過ぎた。
メディア報道では、三澤氏はバブル期のリゾート開発などの失敗で抱えた数千億円にのぼる債務の責任を取って退任し、会社は再生機構で債務を処理した上で、UFJ銀行(現三菱東京UFJ銀行)の仲介でトヨタが引き受け、トヨタ傘下で新たなスタートを切ったとされている。一見、小泉-竹中路線で突っ走ってきた不良債権処理スキームに基づく、企業再生のサクセスストーリーだ。
しかし、ミサワの場合他と違うことが一つあった。それは、創業者三澤千代治氏のただならぬミサワへの愛着だった。
自動車メーカーに人の住む家は作れないと確信する三澤氏は、三澤氏は、ミサワの再生機構入りからトヨタに引き継がれるまでの一連の過程の中で、数々の不正や問題があったことを告発。特にその過程で竹中平蔵財政金融担当大臣(当時)の不当な介入があったことは、大臣の職権濫用につながるとして、竹中大臣を刑事告訴に踏み切っている。
ミサワホームを再生機構経由でトヨタ傘下に入れる処理方法が、当時の経済状況の中で正しかったかどうかについては、三澤氏側と債権者でもある取引銀行側の主張に大きな開きがあり、果たしてどちらが本当に正しかったのかはわからない。しかし、その過程で三澤氏が指摘するような数々デューデリジェンス上の問題があった可能性は大きい。
また、確かに再建を担う経営者にとって三澤氏はうるさい存在なのかもしれないが、三澤氏が創業者としてミサワホームの理念や哲学の体現者であることも疑いのな事実である。その三澤氏を強引に排除して、住宅メーカーを欲していたトヨタに「不当に安い値段で」(三澤氏)譲渡する方法が、果たして企業再生のあり方として適切だったのかどうかも問われる。
そこで今回は三澤千代治氏をゲストに招き、三澤氏とミサワホームに何が起きたのかを三澤氏の視点から再検証しながら、「不良債権処理」の国家的大義名分の元で竹中平蔵氏が主導してきた企業再生のあり方と、苦境に陥った企業の強引な破綻処理や再生処理を通じて、日本が失ったかもしれないものが何なのかを考えてみた。