世界標準から大きく外れた日本の精神医療を根本から変えるためには政治と社会の変革が不可欠だ
精神科医、都立松沢病院名誉院長
1952年千葉県生まれ。80年東京大学医学部卒業。医学博士。専門は老年期認知症の医療、介護。82年より都立松沢病院精神科医員。91~98年、東京大学医学部精神医学教室講師。認知症専門病院の和光病院院長などを経て2012年都立松沢病院院長。21年より同名誉院長。著書に『アルツハイマー病になった母がみた世界』、『都立松沢病院の挑戦』など。
アルツハイマー病の「画期的新薬」とされるレカネマブが9月の薬事審議会で承認され来月にも保険薬として臨床で使われる見通しとなっている。
岸田首相は、今年1月の施政方針演説で日本のイノベーションとして「世界で初めて本格的なグローバル展開が期待されるアルツハイマー病の進行を抑える治療薬」が開発され、認知症の人とその家族に希望の光をもたらすと持ち上げた。これまで認知症薬とされてきた塩酸ドネペジル(商品名アリセプト)などは症状改善薬であり、その効果はあくまで症状の進行を遅らせるものであり、認知症の原因に直接働きかけるものではなかった。
期待が高まる中、政府は今年9月、官邸に「認知症と向き合う『幸齢社会』実現会議」を設けた。そして、レカネマブの薬事承認を受け、薬へのアクセスや必要な検査体制等の整備を真っ先に挙げた。レカネマブは、アルツハイマー病の初期の段階でアミロイドという物質の蓄積がみられる患者が対象で、PETやMRIといった脳の検査をする必要があり簡単に利用できる薬ではないからだ。
こうした中、今年8月に出版された『アルツハイマー病研究 失敗の構造』(カール・へラップ著)という本が衝撃的な事実を指摘した。この本はレカネマブの開発のもとにもなったアミロイド仮説自体に疑問を投げかけ、そもそもアルツハイマー病治療薬の開発を一つの仮説に賭けてしまったことを問題視するものだ。都立松沢病院名誉院長でアルツハイマー病臨床の第一人者である齋藤正彦氏は、この本に書かれていることは多くの精神科医にとっては分かっていたことで驚くにあたらないことだと言い切る。
アルツハイマー病は認知症の原因疾患の1つで認知症のおよそ3分の2はアルツハイマー病とされる。ドイツの精神科医アロイス・アルツハイマーが、1906年に認知機能が失われて51歳で亡くなった女性患者の脳の組織に老人斑とよばれるアミロイドの蓄積を見つけたことが、アルツハイマー病の名前の由来だ。このアミロイドというたんぱく質が脳の中に蓄積されることが引き金となり、細胞死が起こり認知機能が失われた状態がアルツハイマー病だというのがアミロイド仮説だ。脳の中でアミロイドがつくられ沈着し細胞の中にタウたんぱくという神経原繊維のもつれが生じ細胞死をもたらすとされ、その流れのどこかを絶ち切ることができれば、根本的な治療薬になるはずだとアメリカを中心に研究が進められてきた。
その後、家族性アルツハイマー病の遺伝子が特定されたことで研究が加速し、特に1999年にマウスでアミロイドの抗体を利用したワクチン療法が成功しマウスの脳からアミロイドが消えたことでアルツハイマー病は治るのではないかと世界中で大きな期待が集まった。しかし、人間では重篤な副作用が起き失敗。その後もいくつも失敗を重ねた上で登場したのが今回のレカネマブだった。
しかし、齋藤氏はレカネマブの効果についても首を傾げる。レカネマブを開発したエーザイのデータによると、レカネマブを投与した患者を対照群と比較すると、18カ月後では認知機能の悪化のスピードを27%遅らせることができたとされている。しかし、これは臨床的認知症尺度の点数の合計で比較したものであり(すべて正常なら合計点が0点、重度だと18点)、数値としてはレカネマブと対照群で0.45の差があったというが、それは臨床的にはほとんど実感できない差なのだという。
そもそも家族性アルツハイマー病の原因とされるアミロイドの蓄積と高齢のアルツハイマー病が、同じ原因による疾患であるかどうかも疑わしい。齋藤氏によれば、アミロイドの蓄積があってもアルツハイマー病でない人もかなりの割合で存在し、アミロイドは正常な老化をコントロールしているのではないかといった見方もあるのだという。しかし、アミロイド仮説以外はほとんど顧みられないまま多額の研究費がつぎこまれて現在に至っているのが現実だ。
政府が喧伝するように認知症治療の新たな段階に入ったと手放しで喜んでよいのか、そもそも高齢のアルツハイマー病患者に薬物治療は必要なのか、『アルツハイマー病になった母がみた世界』という著書もある齋藤正彦氏と、社会学者の宮台真司、ジャーナリストの迫田朋子が議論した。