アベノミクスこそがこの選挙の最大の争点だ
日本総合研究所上席主任研究員
1955年東京都生まれ。79年早稲田大学法学部卒業。同年時事通信入社。ワシントン支局長、ニューヨーク総局長、解説委員長などを経て2020年退職。同年より現職。著書に『アフター・アベノミクス』、『官僚たちのアベノミクス』、『ドキュメント 強権の経済政策』など。
行くも地獄、退くも地獄ということか。
植田和男日銀新総裁が7月28日、金融政策の変更を発表した。イールドカーブ・コントロールを緩めるという、金融の門外漢には意味が分かりにくいものだったが、要するにこれまで日銀が大量に国債を買うことで人為的に抑え込んできた金利を、これからはもう少し高いレベルまで容認することにしました、ということだそうだ。つまり、事実上の金利の引き上げを意味する。
今回の発表をもって、植田日銀が過去10年にわたる黒田日銀の下での異次元緩和からの脱却の道を探り始めたと見るのはやや早急かもしれない。日銀は今後も短期金利をマイナスに抑え続け、上場投資信託(ETF)を通じた株の買い入れも継続するとしている。しかし、異次元緩和からの脱却が植田日銀の至上命題であることに変わりはない。問題はhowとwhenだ。
アベノミクスの名の下で異次元緩和なる特殊な政策を10年も続けてきた日銀は、自縄自縛に陥っている。自らが続けてきた異端の政策を終了させた時、日本や世界経済への影響はもとより、日銀自身にも存亡に関わる大きな問題が起きることが必至だからだ。しかし、かといってこのまま惰性で異次元緩和を続ければ続けたで、恐ろしい結末が待っている。実際、リーマンショック以後、日本に倣ってゼロ金利やQE(量的緩和)を採用した欧米諸国はどこもその後頃合いを見て、いち早くゼロ金利政策から脱却している。これ以上下げられないレベルまで金利が下がると、金融政策上の選択肢を奪われることに加え、経済に大きな副作用を及ぼすからだ。
既に異次元緩和の影響は日本の隅々にまで及んでいる。日本は日銀が株を買い支えてきたことで東証の株価は史上最高値を上回り、円安によって輸出が好転したことで大企業の業績も軒並み堅調だ。しかし、それは逆に日銀が異次元緩和をやめた瞬間に、激しい反作用に見舞われる可能性を示唆している。しかも、業績に関係なく株を買い続けたことで、日銀の保有する株式の総額が東証の時価総額の7%にまで膨れ上がってしまい、今や日銀は日本株式会社の最大の株主になってしまった。しかも、日銀が株主として会社にもの申すのはおかしいので、多くの大企業で大株主の日銀がただ株を黙って持ってくれている状態だ。こうした株式市場への介入で、市場の秩序は完全に歪められてしまった。
また、日本では金利が人為的に極端に低く抑えられたために、本来であれば淘汰されるはずの低収益事業の存続が可能となり、経済の新陳代謝や産業構造改革が阻害されてしまった。早い話が表面的な好景気とは裏腹に、日本経済全体の体力が大きく落ちてしまったのだ。それは日本がことごとく国際的な指標で低迷していることによって裏付けられている。
さらに、日銀が自ら発行する通貨を使って国債を大量に買ってくれるため、政府の放漫財政が常態化してしまった。日銀の国債買い付けは法律で禁止されている財政ファイナンスに他ならないが、日銀は国債を政府から直接買うのではなく、市場を通じて買っているから財政ファイナンスには当たらないという詭弁によって、正当化されてきた。独裁国家などによく見られる財政ファイナンスは、政府が自らおカネを刷って借金の穴埋めをするというものだが、曲がりなりにも先進国の日本がそんなことをやっていていいはずがない。これもいつかは大変な副作用をもたらすことが必至だ。
結果的に異次元緩和前の2013年時点で91兆円だった日銀の国債保有高は576兆円まで膨れ上がり、政府の債務残高のGDP比は264%まで拡大してしまった。これは先進国では考えられない高水準だ。日銀の異次元緩和に伴う国債や株式の無制限で大量の買い付けは、日本の株式市場と財政の規律を完全に崩壊させてしまった。
しかし、当初目標にしながら中々実現できなかった2%のインフレ率も、昨今の物価高で既に突破している。2%が達成できないことが大規模緩和を続けてきた最大の理由だったのに、それを達成した今も大規模緩和から抜け出すことができないのには理由がある。大規模緩和をやめた時の経済や国民生活への影響が計り知れないほど大きいからだ。
まず、長期にわたる金融緩和でゼロ金利を前提とした経済体制ができあがってしまったため、利上げをすればそれに耐えられない低収益部門が一斉に崩れ、日本の経済は大混乱に陥ってしまう。もちろんこれまで日銀が買い支えてきた株式市場も、日銀が買うのをやめたとなれば大幅安となるだろう。更に困ったことに、日銀が金利を人為的に押さえ込む政策をやめた瞬間に金利が急騰し、それに伴い国債が暴落する可能性が大きい。そうなると500兆を越える国債を抱えた日銀は瞬く間に債務超過に陥り、破綻してしまうことが必至だ。日銀が自らを破綻に追いやるような政策変更の決定を自ら行うことが本当にできるのだろうか。
つまり、このまま異次元緩和を続けていても、ひたひたと地獄が近づいてくるが、かといって今ここで異次元緩和をやめると、ほぼ確実に地獄がやってくる。だから、やめなければならないことはわかっていても、やめるにやめられないのだ。
「わかっちゃいるけどやめられない。」最近、日本については同じような話をよく耳にするが、日銀の失敗は国内外への影響があまりにも大きい。
しかし、そこで1つ大きな疑問が出てくる。日銀にも財務省や金融庁にも、頭のいい金融や財務の専門家が大勢いるはずだ。彼らはこうなることは最初からわかっていたはずなのに、なぜそれを避けることができなかったのかということだ。彼らはなぜ今のような断末魔の状態に追い込まれることを許してしまったのだろうか。
今年は、2013年に異次元緩和が始まってからちょうど10年の節目となる。日銀の議事録は10年後に公表される決まりなので、異次元緩和を決定した時の議事録が2023年7月31日に公表された。その中で、2013年4月4日の政策決定会合では、黒田総裁自身が「2%の物価目標をできるだけ早期に実現することを目指すべきで、2年という期間を念頭に置いている」と述べ、異次元緩和導入を主導していたことがあらためて確認された。一方で、当時審議委員だった佐藤健裕氏や木内登英氏は異次元緩和に懸念を示していた。
異次元の金融緩和には多くの副作用が伴うことは金融の専門家であれば誰もが予測できたことだった。だから、欧米諸国では、仮に一時的にそのような政策を採用したとしても、できるだけ早いタイミングでその出口を探り、金融政策を正常化している。しかし、当初2年を念頭にこの政策を採用しておきながら、2年後の節目にもそれをやめることができず、結局日本だけが10年間もマイナス金利政策を引きずってしまった。当初予定されていた2年間でインフレ率2%の目標が達成できなかった段階でも、アベノミクスの一丁目一番地に位置づけられた異次元緩和は見直されることなく継続された。
元時事通信記者で日銀の政策を長く取材してきた軽部謙介氏は、当時、黒田日銀が続く限り異次元緩和というお題目を降ろすことはできず、皆がおかしいと思っていても空気に抗えず、継続するしか選択肢がなかったと当時の政府や日銀の置かれた状況を語る。
軽部氏はそもそも大規模緩和の政策以前の問題として、安倍政権が黒田東彦氏を日銀総裁に一本釣りした際の任命プロセスや、同時期に同じく安倍政権が選んだ審議委員の任命プロセスに対するチェックが甘かったことも指摘する。2013年に黒田日銀が始まったとき、メディアはアベノミクスの中身にばかり気を取られ黒田氏の選任プロセスやその黒田氏の下で日銀が打ち出す政策の妥当性に対するチェックが不十分だったと、軽部氏は自省の念を込めて語る。これは安倍政権が内閣法制局長官に集団的自衛権を容認する考えをもった小松一郎氏を一本釣りして据えたのと同じやり方だった。
しかし、何にしても、世界の中で日本だけが異次元緩和という特異な金融政策を未だに続ける中で、その副作用を甘受せざるを得ない状態に置かれている。異次元緩和を続ける先に何が待っているのか。また、今それをやめたら何が起きるのか。なぜ日本は一度走り出すと止まれなくなってしまうのかなどについて、元時事通信記者で帝京大学経済学部教授の軽部氏と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。