NATOの拡大で変わる欧州の安全保障と日本が考えるべきこと
東京大学大学院法学政治学研究科教授
1957年東京都生まれ。80年東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業。同年、NHK入局。国際局勤務を経て83年NHK退職。89年、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。92年同博士課程単位取得退学。立教大学、東京外国語大学、慶應義塾大学非常勤講師などを経て、2008年より現職。著書に『ロシア万華鏡 社会・文学・芸術』、編訳共著に『ヌマヌマ はまったら抜けだせない現代ロシア小説傑作選』など。
ロシアによるウクライナ侵攻は、日々戦況が報じられる中、ロシア軍による残虐行為が伝えられるなど、事態の深刻さは日に日に度合いを増すばかりだ。ビデオニュース・ドットコムではウクライナの地政学的な状況を理解するためには、冷戦終結後のNATOの東方拡大の歴史やアメリカの対露政策の変遷など多様な視点を持つ必要があることを報じてきたが、とは言え、ロシアによるあからさまな武力侵攻が国際法上も人道法上も到底許されない行為であることは論を俟たない。
いきおい、世界各地でロシア人やロシア語に対する反発は強まる一方で、誹謗中傷やいわれ無き差別なども各地で始まっているようだ。JR恵比寿駅で乗客からの苦情を受けてロシア語の案内表示が撤去されたり、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場のスターでロシア人のアンナ・ネトレプコが舞台から降板させられたことなどは、ほんの一例だろう。
しかし、ウクライナへの軍事侵攻を主導する独裁者のプーチン大統領やそれを支えるプーチン政権と、ロシアの市井の人々が、必ずしも一心同体ではないことを、われわれは心しておく必要があるだろう。2月24日のウクライナ侵攻直後はロシア国内の方々で反戦デモが起き、作家やジャーナリストたちが次々と声をあげていたが、3月4日にフェイク法なるものが制定されると、ロシア国内の言論状況は一変してしまった。
第二次世界大戦で夥しい犠牲を経験したことから、ロシアでも当然のように平和教育が行われ、戦争に反対する考え方は浸透している。ロシア人とて、一方的な軍事侵攻が国際法違反であり、到底許されない行為であることは、重々承知している。そのためプーチン大統領は今回のウクライナへの侵攻はあくまで軍事作戦であり、これを「戦争」と呼ばせないために、フェイク法なる法律を定め、これによって、今回の軍事侵攻を「戦争」と呼ぶことはフェイク情報を拡散することになるとして、これを厳しく取り締まり始めたのだ。隣国のベラルーシでは2020年の大統領選挙の不正疑惑からルカシェンコ政権に対する大規模な反政府デモが長く続いたが、現在のロシアの状況はそれとはまったく様相が異なると、東京外国語大学教授でロシアの近現代文学が専門の沼野恭子氏はいう。
ロシアでは中学校の授業でウクライナ侵攻に疑問を呈した教師の発言を生徒が録音して当局に告発した結果、教師が警察から取り調べを受けた後に解雇されるなどの事件も起きている。ロシアが再びスターリン時代を彷彿とさせる言論統制と密告社会になってしまうことを、ロシアに友人も多い沼野氏は非常に危惧しているという。
既報のようにロシア人の多くがプーチン政権を支持していることは事実なのだろう。ロシアの独立系世論調査機関が行った面接調査でも81%が軍事作戦を支持しているという。ただし、それは強力な情報統制の下で何が起きているかを知らされず、しかも表立って反対意見が表明できない状況下での調査結果に過ぎない。
そうした状況を受けて、ロシアの文化人たちの多くが迫害を恐れて国外に逃れている。沼野氏が翻訳を手掛けたロシアの著名な作家リュドミラ・ウリツカヤ氏は、直後はロシア国内から発信していたが、その後身に危険を感じ、ドイツに逃れたという。また日本文学研究者で推理小説家でもあるボリス・アクーニン氏は、プーチン政権の強権支配から逃れてイギリスに移り、「本当のロシア」というサイトを通じて、海外に逃れた著名なロシア人たちとウクライナ避難民への支援を行っている。迫害を逃れてロシアを脱出したロシア人を支援する「箱舟」というプロジェクトも立ち上がっている。
市民が正しい情報を得ることが難しく、政府と異なる意見を表明すれば、身に危険が及ぶという状況の下で、われわれはいかにしてロシアの心あるひとたちと連帯し、ロシア国内の反戦機運をいかに盛り上げていくか考えていく必要があるだろう。沼野氏は「兵士の母の会」の動きにも注目したいと語る。そもそもロシア人の中にはウクライナ出身だったり、親戚がウクライナとロシア双方にいたりする人も多い。母語がロシア語であっても出身地はウクライナという場合もある。ウクライナを善、ロシアを悪ととらえる安易な二項対立図式に囚われずに、現状を正しく見つめることの重要性を沼野氏は強く訴える。
国の指導者が暴走し、正しい情報を得ることも、本音で意見表明をすることも困難な状況に置かれた時、私たちは何ができるのか。今ロシアの人々が置かれている状況は、一歩間違えば、いつどこの国に起きてもおかしくないものではないのか。多くのロシアやウクライナ人作家や文化人との交流がある沼野恭子氏と、社会学者・宮台真司とジャーナリスト迫田朋子が議論した。