日本が人質司法をやめられないわけ
弁護士
1947年香川県生まれ。69年京都大学文学部卒業。76年同大学院文学研究科博士課程単位取得後退学。花園大学社会福祉学部教授、奈良女子大学文学部教授などを経て2009年定年退官。同年より名誉教授。立命館大学特別招聘教授を兼務。専門は発達心理学、法心理学。15年より袴田事件の取調べ録音テープの弁護側鑑定人を務める。著書に『袴田事件の謎 取調べ録音テープが語る事実』、『自白の研究 取調べる者と取調べられる者の心的構図』など。
来日したビートルズの日本武道館での初公演が行われた1966年6月30日、この日の未明に静岡県清水市で起きた一家4人殺害事件、いわゆる世に言う「袴田事件」をめぐり昨年12月23日、最高裁は静岡地裁が一度は認めた再審請求を却下した東京高裁に対し、その決定を差し戻す決定を下した。袴田事件の再審などしたくないという東京高裁に対し、最高裁はそれをもう一度考え直しなさいと命じたのだ。その結果、袴田事件は55年もの月日を経て、ようやく再審が始まる公算が高くなった。日本の裁判所は無罪が確実視される事件しか再審を認めないことから、袴田事件が前代未聞の冤罪事件となる可能性が非常に高まっている。
この事件では当初から警察が、被害者が経営する味噌工場の住み込み職員だった袴田巌氏を犯人に見立てた捜査が行われ、20日間で250時間を超え、40度を超える灼熱の中、クーラーもない部屋でトイレに行かせてもらえないという、拷問としか言えないような苛酷な取り調べによって最終的に袴田氏が自白に追い込まれたことで、袴田氏はおカネ欲しさから一家四人を惨殺した強盗殺人犯として死刑判決を受け、45年もの間、ひたすら刑の執行を待つ死刑囚として服役することとなった。
他の事件同様、この事件も警察が犯人と見立てた人物の犯行を裏付ける物的証拠が事実上皆無だったため、本人の自白が犯行を裏付ける事実上唯一の証拠だった。しかし、実際には自白だけで公判を維持するのは難しい。裁判では自白に沿う形で、それを裏付ける何らかの物的な証拠が必要となる。しかも、袴田さんは捜査段階では苛酷な取り調べに耐えきれず一度は自白をしていたが、その後、公判段階になって全面否認に転じていた。
これでは公判を維持することはできない。しかし、この事件は当時、大きなニュースとなり、世間の耳目を集めていたこともあり、警察も検察もメンツにかけて、どうしても犯人を見つけ出し有罪にしなければならない事件だった。
そして、事件は袴田さんが逮捕されてから1年以上も経ってから、突如として工場の味噌タンクから血染めの着衣が発見されるという奇妙な展開を見せた。しかも、そこで見つかったズボンのかがり糸が、袴田さんの自宅で発見されるというびっくりするような関連付けが行われた結果、その着衣が袴田さんが犯行時に来ていた服だったことが断定され、袴田被告は取り調べ段階の自白に加え、被害者や本人の血痕(犯行時、袴田さん自身も負傷したとされた)が付着した犯行時の衣服という物的証拠も発見されたことで、死刑判決を受けたのだった。そのズボンはサイズが小さすぎて、公判の場で袴田氏はそれをはこうしても膝までしかあげられなかったが、その問題も一年間味噌樽に漬かっている間に縮んだのだろうということで片付けられた。
ところが、40年の月日を経て、この「物的証拠」が逆に徒となる。科学技術の進歩によりDNA鑑定が可能になったことで、衣服に付着していた袴田さんや被害者のものとされた血液の痕が、いずれも違う人の物であることが明らかになったのだ。味噌タンクで発見された着衣が何者かによって捏造されたものであった可能性が非常に高くなった。
それを受けて2014年静岡地裁が弁護団側の再審請求を認め、その流れで、2015年、警察と検察の取り調べの様子を録音したテープ約46時間分が開示された。そして、それを鑑定したのが、今回のゲストで心理学者の浜田寿美男氏だった。
このテープ46時間分は取り調べの全てではない。しかも、袴田氏が実際に自白に転じる時の様子は録音されていないか、もしくはカットされていたと浜田氏は言う。しかし、それでも開示された46時間から、袴田氏がなぜやってもいない犯行を自白するに至ったのか、捜査員たちがどのようにして袴田氏と追い込んでいったのかなど、関係者たちの心の動きが如実に伝わってくると浜田氏は言う。
当初、けんか腰で威勢良く警察に反論していた袴田氏だったが、警察側が予め答えを知っている謎かけのような駆け引きをもちかけられ、もし警察側が正しかったら、「首を差し出す」ことを約束させられた上で、その賭けに負けて警察との駆け引きで守勢にたたされたりするうちに、次第に元気を失っていった。また、警察側がどのような言葉によって袴田氏に圧力をかけていったのかなど、調書には書かれていない情報なども録音テープは露わにしていると浜田氏は言う。
そして何よりも重要なことは、テープは一見、警察が袴田氏が犯人であることを聞き出そうとする過程が克明に記録されているものであるかのように見えるが、心理学者の浜田氏が専門的な知見に基づいて鑑定すると、むしろそこには袴田氏が実は犯人ではないことを裏付ける証拠が多数鏤められているのだという。警察や検察は袴田犯人説の上に立った上で推定有罪原則に基づいて質問をしているのでそれに気づかないが、予断を持たずに警察と袴田氏のやりとりや袴田氏の発言を丁寧に聞けば、本来はそれに気づくはずだと浜田氏は言う。
袴田事件は現時点ではボールは最高裁から差し戻された東京高裁のコート上にあり、まだ必ずしもこのままスムーズに再審へと進む保障はないが、袴田事件が冤罪だったということになれば、無実の人を45年も服役させ、重度の拘禁精神疾患を負わせてしまうという、取り返しのつかない人権侵害を国家が犯してしまったことになる。また、袴田事件(この事件は本来は袴田事件ではなく清水事件と呼ばれるべき事件だったことになる)の真犯人は今も捕まらないままということになる。袴田さんは「世界で最も長く収監されている死刑囚」として、75歳の誕生日だった2011年3月10日にギネス世界記録に認定されたそうだが、日本にとってこれほど不名誉な世界記録はあるだろうか。
今週のマル激は浜田氏とともに、袴田事件の取り調べ録音テープが物語る袴田事件の真相と日本の深くて暗い刑事司法の闇について、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。