裏金が作り放題の政治資金規正法の大穴を埋めなければならない
神戸学院大学法学部教授
弁護士、元検事
1955年島根県生まれ。77年東京大学理学部卒。三井鉱山勤務を経て80年司法試験合格。83年検事任官。東京地検検事、広島地検特別刑事部長、長崎地検次席検事、東京高検検事などを経て、2006年退官。08年郷原総合法律事務所(現郷原総合コンプライアンス法律事務所)を設立。10年法務省「検察の在り方検討会議」委員。著書に『「深層」カルロス・ゴーンとの対話:起訴されれば99%超が有罪となる国で』、『検察崩壊 失われた正義』など。
東京地検特捜部は2020年6月18日、河井克行前法務大臣とその妻案里参議院議員を公職選挙法の買収容疑で逮捕した。現役の国会議員が夫婦揃って逮捕され、しかも夫の克行氏は前法務大臣にして安倍首相の補佐官を務める側近中の側近だったことから、安倍政権の発足以来、政治が絡む事件にはからっきし手出しができずにいた検察がようやく重い腰をあげたと、巷ではこの逮捕劇を歓迎する向きが多いようだ。
確かに、2人区とはいえ長年与野党で議席を分け合ってきた参院広島選挙区で、安倍首相に批判的だった現職の溝手顕正参院議員に対して、あたかも刺客をさし向けるかのような形で首相側近の妻を2人目の候補として擁立し、その候補に党から溝手氏の10倍にあたる1億5,000万円もの活動費が支出され、夫婦でそのカネをばらまくような選挙運動が行われたことが広く報じられる中、それが典型的かつあからさまな選挙買収事件だったと理解されるのも無理からぬところだろう。
しかし、検察官として公職選挙法や贈収賄事件を捜査した経験を持つ郷原信郎弁護士は、この事件は世の中が思っているほどクリアカットな選挙買収事件ではないので、今後の成り行きは注視する必要があると警鐘を鳴らす。
報道では克行氏が中心となり、かなりあからさまな買収が広範囲で行われていたかのような情報が流布されているが、ご多分に漏れずこれは記者クラブメディアが検察のリークを垂れ流しているだけなので、100%真に受けてはならない情報だ。
郷原氏は克行氏が党から支出された資金を広島県内の有力な首長や市議会議員らに配りながら妻案里氏の応援を依頼して回った時期は実際の参院選の4か月以上も前に始まっており、その多くはこれまで政治の世界で「地盤培養行為」と呼ばれる「政治活動」の範疇に入るものだった可能性が高いと指摘する。
公職選挙法は「特定の候補者を当選させる目的で選挙人や選挙運動者に金品を供与」することを禁じているが、選挙とは直接関わりのない形で地元の有力な政治関係者にカネを渡し、支持層の拡大や応援を依頼することは合法であり、実際にそのようなことは今も広く行われているという。
「多少、選挙とは時期が離れていても、結局は投票や票の取りまとめを期待しているのでしょう」と言いたくもなるところだが、それを言ったらあらゆる政治活動は、最終的には投票を期待している面が大なり小なりあるものだ。それがダメとなると、全ての政治活動は一切カネの介在をナシで行われなければならなくなってしまう。自分のために汗をかいてくれる人がいても、一切の対価を支払ってはならないことになり、それは現実的ではないというのが、少なくとも現在の日本の政治活動のスタンダートになっている。
「地盤培養行為」とは、要するにその政治家、もしくは候補者の支持者を増やすための行為なので、公職選挙法が禁じた「当選させる目的で金品を供与」とは紙一重ではあるが、異なるものと考えられてきた。選挙間際にカネを渡して投票を依頼したり、票の取りまとめを頼んだり、選挙運動員に法律で認められている以上の金額を支払って運動をさせる行為以外は、通常は従来の政治活動、すなわち「地盤培養行為」と見做されてきたのだそうだ。
これまで政治の世界ではこのような行為は広く行われ、検察もそれはグレーゾーンとして手を出さないできたと郷原氏は言う。公職選挙法上の買収というものはかなり狭義に定義され、それに当てはまらないものは摘発しないというのが、これまでの政治の世界のデファクトスタンダートであり政界も警察・検察側もそのデファクトスタンダートを許容してきたということだ。
今回も具体的に票の取りまとめの依頼があったとか、具体的に票を買いたいという申し出があったという話があれば別だが、河井夫妻がカネを方々でばらまきながら「案里をよろしく」と支持を依頼して回った程度の話であれば、これまでの基準では買収とはならなかったと郷原氏は言う。その上で、今回広島地検が公職選挙法の買収容疑で逮捕に踏み切った以上、検察はこれまでの「地盤培養行為」と「買収」の境界線を踏み越える決断を下したと見るべきだろうと郷原氏は言うのだ。
政治の世界で「地盤培養行為」などと言いながら実質的には買収と変わらない金品のやりとりが当たり前のように横行していたのであれば、われわれ有権者としては検察がその境界線を踏み越える決断を下したこと自体は歓迎すべきことなのかもしれない。そもそも今回党から河井夫妻に渡った1億5,000万円のうち1億2,000万円は政党交付金、つまり原資は税金だ。しかし、法律が変わったわけではないのに、これまでの基準では許されてきたことをやっていたらいきなり逮捕され、「今回から境界線が変わったんだ」と言われるのは、それはそれで問題がありそうだ。公判で河井夫妻がそのような主張を展開した時、検察側は有効な反論の手立てが用意できるのだろうか。あるいは検察側は今回の河井夫妻の行為は、従来の基準でも境界線を踏み超える行為だったことを証明するつもりなのか。
さらに、今回検察が一方的に政治活動と選挙運動の境界線を動かすことについても、市民社会は注意をしなければならない。もとより金権政治や汚職などはあってはならないが、政治資金規正法にあえて「正」の字を充てている日本は、「金集めのための政治」は許さないが「政治のための金集め」は認める法理を採用している。いたずらにカネの使用を制限することは政治活動の制限にもつながりかねず、政治と官僚間の権力闘争という図式の中において、ますます官僚を優位な立場に押し上げる可能性もある。いつもの話で恐縮だが、われわれは政治家は選べるが官僚は選べないのだ。
まずは河井氏の事件を理解する上で、検察のリークの垂れ流し報道だけを見て事件の概略を理解したつもりになっていてはまずい。その上で、今回の河井氏の行為が従来の政治活動と選挙運動の境界線を本当に超えていたのかどうかを見極める必要がある。また、もし今回は境界線を越えていなかったとしても、明らかに既存の境界線がおかしいとすれば、それは検察の一方的な解釈変更によってではなく、法改正によって動かされるべきものではないか。そして、その場合、その境界線を動かすことによって、政治と官僚の力関係がどう変わるのかについても、われわれは思いを馳せる必要があるだろう。そこが市民社会が直接の利害当事者となる部分だからだ。
河井氏逮捕で検察はどこまで本気でやるつもりなのか。政治活動と選挙運動の境界線を動かすところまで踏み込む覚悟があるのか。仮にその覚悟があるとしても、それを検察が一方的に行うことが許されるべきことなのか。また、それで裁判に勝てるのか。さらに、政治には自分たちに不都合となる法改正を期待できない時、それが検察の解釈変更によって実現することを期待することは許されることなのか。市民社会にとってリスクはないのか、などについて、公職選挙法や政治資金規正法に精通し、今回の河井氏の事件についても多くの発信を行っている郷原氏と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。