五輪談合事件に見る、捜査能力の劣化で人質司法に頼らざるをえない特捜検察の断末魔
弁護士
安倍政権は検察庁法改正案の今国会での成立はあきらめ、来週で通常国会は閉会となる見通しだ。国家百年の計を過つことになる危険性のあった種苗法の改正も、とりあえず今国会では見送られた。
検察庁法の改正を巡っては、黒川弘務元東京高検検事長の定年延長問題も絡み、異例ともいえる反対運動がSNSを中心に市民社会側から巻き起こった。元検事で弁護士の郷原信郎氏は検察庁法の改正案を、「政治ヤクザ(安倍政権)が権力ヤクザ(検察)を手足のように使うことを可能にする法律」と呼び、改正案の危険性に警鐘を鳴らしたが、まさに正鵠を射た表現だろう。
元来、検察は数ある政府機関の中でも特に絶大な権力を持っている。検察が持つ公訴権(人を裁判にかける権利)は国家権力の中でも警察権や徴税権などと並び、権力の最たるものと言っていい。何せ、主権者、つまり国の主であるはずの国民を合法的に逮捕、監禁することができる上に、日本のように死刑制度が残る国においては、裁判にかけた上で合法的に人を殺すことさえできる。しかも、検察は本来自分たちを監視する立場にある内閣総理大臣、国会議員に対しても、この権力を行使する権限を持つ。検察という機関が政治から独立している必要があるのはそのためだ。
われわれ主権者たる国民は官僚を選ぶことはできない。だから、官僚機構はわれわれが選んだ代議員(国家公務員の場合はわれわれが選んだ国会議員の多数派によって形勢された内閣)に監視してもらうような仕組みになっている。検察も官僚機構の一部ではあるが、しかし、上記のような理由から、検察だけは他の官僚とは異なり、政治からも一定の独立性が保障されなければならない。
ここまでは誰もが同意できるところだろう。しかし、ここからが問題だ。では、その検察は誰が監視する義務を負い、検察が過ちを犯した場合、誰がそれをチェックし、それを正すことができるのだろうか。
官僚機構の唯一の監視主体である国会議員や内閣からの干渉も受けないとなると、検察は向かうところ敵なしの無敵機関になってしまいかねない。しかも、公訴権を独占する日本の検察は、自分たちの胸先三寸で誰を裁判にかけ、誰をかけないかを決めることができるため、99.84%などというおおよそ先進国ではあり得ないような非常識な有罪率(検察が起訴した被告が有罪判決を受ける確率)を誇る。その上、被疑者や参考人の取り調べの可視化(録音・録画)も進んでいないし、取り調べに弁護士が立ち会うという先進国では常識中の常識と言っていい権利さえ日本では認められていない。日本の検察には世界中で類を見ないような、あまりにも強大な権力が集中している一方で、彼らはほとんど外部からチェックを受けないようになっているのが実情なのだ。
検察官の定年を内閣の思いのままに延長したりしなかったりすることが可能になる今回の検察庁法の改正案は、そのような強大な権限を持つ検察が政治の手足として利用されるようになってしまえば、元々検察が内包している暴力装置が暴走する危険性に加え、それが時の政治権力によって政敵を追い落とすためや、権力の濫用による汚職などを隠蔽する目的で利用されかねないので、絶対に許されるべきものではなかった。しかし、とりあえず今国会で検察庁法の改正が見送られたとしても、権力ヤクザ問題は依然として残っているし、日本の市民社会が常にその暴走の危険性と隣り合わせにあることに変わりはない。いや、それは単なる潜在的なリスクなどではなく、近年だけを見ても毎年のように繰り返し顕在化している問題なのだ。
検察は何があっても現在の権限を維持したいし、チャンスさえあればそれを更に拡大・強化する機会を虎視眈々と狙っている。なぜならば、それこそが官僚の基本的な行動規範であり、その点においては検察も他の官僚機構と何ら変わりはないからだ。しかも、公訴権を独占し強制捜査権を持つ検察は「違法行為を目こぼししてあげる」、「政敵のネタを提供してあげる」などによって、時の政治権力とバーター取引をする材料には事欠かない。
日本という国が、正義が貫徹される社会であるためには、悪を蔓延らせないよう検察にはぜひとも頑張ってもらわなければならないし、政治からの独立性も貫いてもらう必要がある。しかし、同時に現在の日本の刑事司法制度は、残念ながら検察がそのような独立した社会正義の体現者であり続けると同時に、公明正大(フェア)な組織であり続けることを困難にしていると言わざるを得ない。このままでは検察の暴走は繰り返され、多くの犠牲者を出すことになるだろうし、その一部は後に冤罪事件という形で表面化するかもしれないが、その大半は「無辜の民を裁く」という、近代国家がもっともやってはいけないとされることが平然と行われ、その責任も問われないことになるだろう。権力ヤクザが牙を剥いたら最後、餌食となった市民は泣き寝入りするしかない。
政治からの独立を保ちつつ検察が正義を貫徹でき、なおかつ暴走を防ぐ制度を担保するために、アメリカのように地方検事を公選制にしている国もあるし、警察から送検されてきた事件を検察は無条件で起訴しなければならない制度を取っている国もある。あるいは検察以外にも公訴権を認めることで、検察に権限を集中させないようにしている国もある。どこの国も検察の独立性と監視方法のバランスに腐心しながら、独自の制度を作っているのだ。
しかし、どの国にも最低限共通しているものとして、「取り調べの全面可視化」、「弁護士の立ち会いの義務化」、「起訴前勾留期間の短縮(最長で3日程度。現在日本は1事件について23日)」、「被告人に有利になるものも含め検察が保有する証拠の開示義務」などは、日本の刑事司法が国連などの場で「中世なみ」と揶揄されないための待ったなしの条件となる。その上で公選制なり何なり日本独自の制度を考えるのは結構だが、今の日本の司法制度は独自制度を主張するにはあまりにも近代国家の司法制度としての基本的な要件を満たしていないといわざるを得ない。
今国会の検察庁法改正がなくなったことで、とりあえず検察が政治に隷属させられる危機が去った今、日本の刑事司法をいかに真っ当なものに変えていくかのボールは、検察庁法の改正に反対のリツイートをした市民社会の側に戻ってきている。これは警察についても言えることだが、警察権や公訴権を持つ刑事司法機関の問題に対しては政治もメディアも及び腰なため、その改革は決して容易ではないが、それができるのは主権者であるわれわれをおいて他にはあり得ない。社会の「フェアネス」(公正)や「ジャスティス」(正義)の基準を定義することにもなる検察のあるべき姿を考える上で、補助線となりそうな論点や事例を、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。